クラピカは森のはずれ、道なき道を歩いていた。
ふらふらと、ふらふらと。



前兆はあった。長老の携帯電話に、いくら掛けても通じない。月に二回、無事を連絡するルールだったのに、森を出てからただの一度も繋がらなかった。
たまたま携帯が壊れたのだと、そう思っていた。クルタ族は必要最低限しか森の外に出ない。携帯の修理は買い出しのついでに行うのだろうと、だからなかなか直らないのだろうと、そう思っていた。

クルタ族虐殺の事件は、全世界に報道された。
大急ぎで故郷の森に帰り着いたクラピカを、首のない身体が、または眼球を抉られた生首が、音もなく迎えた。
クラピカもまた、音を出さなかった。涙すらなく、ただその場に崩れ落ちた。
しばらくは、クラピカ自身も躯の一つであるかの如く、沈黙に包まれた時に身を任せていた。
しかしふと、気付く。落とされた首と、体。一致させられるのは、この世で自分だけだ。
だから墓を掘り始めた。首と体を、同じ穴へ。そして墓標に名を刻む。自分にしか出来ない使命。首が見つからない者も、あったけれど。
埋める前に、一人、ひとり、暗い眼窩を確認した。それが義務のような気がした。
落ちていたイヤリングを、墓石に添えた。
木片に引っかかって裂けた民族衣装を、脱ぎ捨てた。
スコップを握る手には、いつしか血が滲んだ。

同胞を皆殺しにした連中への復讐。そして、奪われた眼を全て取り戻すこと。
そんな発想は、この時のクラピカには思いもつかなかった。
ただただ、現状に絶望した。
クラピカがいくら聡明であろうとも、精神は子どもの域を出ない。
百を超える墓を掘って、正気を保てるはずもなかった。

墓を掘り終え、そこに留まる理由を失くしたクラピカは、森を出ることにした。自分は旅の途中だった、そう思い出して。
陽は昇っていた。墓を掘るのにどれだけ掛かったのか、今は何日の何時なのか、もはや分からない。
乗ってきた地走鳥は、繋ぐのを忘れたため、とっくに逃げ出していた。
だからクラピカは、歩いていた。ふらふらと、ふらふらと。

「おい、お前」

森のはずれ、クラピカを呼び止めたのは、額に十字の刺青を掲げた黒髪黒服の男だった。

「あの墓を掘ったのは、お前か? ……奴らの生き残りか?」

男は、手に入れた緋の眼を一頻り愛で終え、すべて売り払う前にそのルーツを愉しもうとこの地を再度訪れたところであった。
そこで立ち並ぶ真新しい墓を確認し、また、近くをうろつくクラピカを見つけたのだった。
独特の民族衣装を着ていれば、あるいはクルタ族と断定したのかもしれないが。

「“円” で確認したから、取り逃がすはずがないんだが…街にお使いにでも出掛けていた可能性はあるか。もう一度訊く、お前、クルタ族の生き残りか?」

クラピカは虚ろな目で男を見上げたまま、動かなかった。何もかもに絶望したクラピカには、男の言葉が右から左へ抜けるようだった。

「そういえばあの部族、公用語の通じない奴が多かったな。まあ、いい。眼を確認するまでだ」

言うが早いか、男は無造作にクラピカの右腕を取り、あらぬ方向へと曲げた。つまりは、クラピカの腕の骨を折り砕いた。
鋭い破砕音が響く。しかしクラピカは目の色を変えるどころか、呻き声一つ上げなかった。
男はそれを見るや、クラピカを仰向けに蹴り倒し、今度は左脚を踏み付けた。踏み折られた反動でクラピカの体が跳ねた。しかし、それだけだった。

「……なるほど。仲間の全滅に心が麻痺したか…痛め付けても眼は確認できそうにないな」

黒服の男に見下ろされながら、クラピカは思った。
どうやらこの男が、またはこの男を含む一味が、クルタ族を皆殺しにしたようだ。自分の力では、この男には敵わない。ここで自分も死ぬ。朽ちる。
目の前の男に対する憎悪の感情は、この時のクラピカにはなかった。憎悪は、一種のエネルギーだ。絶望の中にある今のクラピカには、憎悪を抱く気力すらない。

「趣向を変えてみよう。痛みは感じなくとも、こちらはどうかな?」

雨が降り出した。
雨は次第に大粒となり、木々の葉の隙間からクラピカに降り注いだ。

男のやり方は、独りよがりなものだった。クラピカは、自分でも知らないような肌の隅々まで、そして奥まで男の手で調べられ、ついには男に穿たれた。
クラピカの芯は中途半端に昂らされ、しかし果てることはなかった。

最後まで虚ろな目でただ男を見上げるばかりだったクラピカを、男は興を削がれたように見下ろした。

「半死人の子どもとヤるのは、なかなか面白い経験だった」

最後にそう呟き、男は去っていった。
拷問にでもかければ眼の色を変える可能性はあるが、わざわざ死人を生き返らせてやる趣味はない。そもそもクルタ族の生き残りであるという確証もない。
だから男は立ち去った。一切の興味を失くして。

シャツ一枚で雨に打たれ、クラピカは死を待つばかりである自分を自覚していた。
右腕も左脚も折れて使えない。立つことも歩くことも、這うことすら出来ない。
雨に体温が奪われていく。おそらく死因は低体温症になるのだろう。
クラピカは仰向けのまま、木々の隙間から空を見た。雨雲だらけの空を見た。
これが、最後に見る風景。
それが故郷の景色で良かった。
せめてクルタ族の最後の生きた瞳に、この空を焼き付けておこう。最後の一瞬まで、見続けていよう。
確かにこの空の下にクルタ族は在った。
幸せに生きていたのだ。










「おい、お前。意識はあるか? 名前は?」

クラピカの中でその声の記憶は混濁していて、いつのものなのか、ハッキリとは思い出せない。










目覚めると、温かな布団の中だった。

「お、よーやく気が付いたか」

白の道着を着た無精ひげの男が、布団の脇に座ってそう声を掛ける。

「まだ動くなよ。腕も足も骨折して、おまけに発熱してるからな。……あーでも良かったぜ、お前ちっとも起きねーから、こんな手当てで良いもんかと正直ヒヤヒヤしてたところだ」

ワケありだろうと思って病院には行ってねぇから安心しろよ、と男は続けた。
着せられているのは、新品と思しき白のシャツと、紺のズボン。右腕と左脚には、いかにも骨折の手当てといった添え木と、包帯による固定。

「……ここは、どこだ?」
「オレの家」
「貴方は、一体」
「あー、なんて言えば安心するかな…そうだハンターだよ、ほら」

ハンター証を見せるも、反応は乏しい。まさか今時ハンターを知らないのだろうか、と道着の男は疑問に思う。
しかしそんな些細な疑問など、次の言葉に吹き飛ばされてしまった。

「それでは、……、私は、誰だ?」


  *  *  *


「はあ、まぁ、いわゆる記憶喪失ってやつだな。やー、どうするかな…」

名前も出身も誕生日も何もかも、横たわる子どもに一切の記憶がないことを確認して、道着の男はポリポリと頭を掻いた。

「持ち物もなんも無ぇから、手掛かりゼロだしな…」
「本当に、私のことを何も知らないのか?」
「ああ、まったく全然。倒れてるのを偶然拾っただけだからな」

男に与えられた温かなスープを飲み干すと、「食欲はあるんだな」と安堵の表情。

「とりあえず骨折が治るまではこの家で療養していけばいい。そのうち記憶も戻るだろ。その骨折じゃ全治何ヵ月になるかな……あー、その間、名前がないと不便だな」

道着の男は、右手を顎に添え、考える素振りを見せた。

「………クラピカ。それが今日からお前の名前だ」

“クラピカ”。何故かそれを聞いて、クラピカの鼓動が早まる。男によれば、それはこの場限りの名前のはずなのに。

「……本当に、私のことを知らないのだな?」
「なーんも知らねぇ」
「ならば何故、こうして世話を焼くのだ。しかも骨折が治るまで、何ヵ月も」
「オレはハンターだって説明したろ。ハンターってのは崇高な職業でな、無償の人助けをすることもあるんだ。現実的な話、金にも余裕があるからな」

それから、と男は微笑した。

「ま、一応、今日から名付け親ってことで。保護者の情だと思ってろ。子どもなんだから、大人には甘えてりゃいいんだ」


  *  *  *


道着の男は、名をイズナビと言った。
当分は安静との指示で、クラピカは布団の上での生活を余儀なくされた。
とはいえ、動いて良いと言われたところで、まともに動けるはずもなかった。松葉杖で歩くことすらままならない。松葉杖で左足を庇って歩けば右腕に負荷がかかるが、その右腕を骨折しているためだ。

クラピカの無聊を慰めるべく、イズナビは家中の本(ただし18禁本を除く)をクラピカに与えた。
同じく暇潰しのために与えたゲームには目もくれず、クラピカは本を読み漁った。元々活字が好きな子だったのだろう。
一週間も経たず読破してしまったクラピカが、他の本をせがんだため、イズナビは週に一度街へ降り、図書館でせっせと本を借りることになった。

「人遣いが荒いのなー、お前。まあ、鍛錬になるけどよ」

クラピカが読む一週間分の本は、なかなかに重い。
クラピカは、年相応の子どもが好みそうな小説の類も読むものの、文献や医学書といった専門書も好み、よくリクエストした。

「何故、ここまで親切にしてくれるのだ」
「ボーッと暇そうにされてちゃ、オレも気分悪いんだよ」
「……すまない。礼を言う」
「子どもが、一人前に気を遣わなくてよし。遠慮するな、名付け親なんだから」

ぐりぐりと頭を撫でても、クラピカの表情は動かない。
そう、クラピカは異様に表情に乏しかった。張り付いたような無表情で、唯一要求するのが本だから、イズナビは面倒でもその要求に応じていたのだった。

  *

……無表情。記憶喪失者の典型的な症状だ、とクラピカは医学書を広げながら思う。
記憶の一部欠損、医学用語では「記憶障害」。
その原因は様々だ。外傷性、薬剤性、心因性……。
ただ、全生活史健忘…自分の何もかもを思い出せないというクラピカの症状の場合、原因は「心因性」と相場が決まっているようだ。

心因性。
つまりは強い心理的ストレスからの自己防衛反応として、自ら記憶を放棄したのだ。

自分は何から逃げ出したのだろう、とクラピカは思う。
逃げたとて、それで救われるわけではない。
記憶を失えば、人格は消失する。空っぽの人間になる。自分が何に喜び、何に悲しむのかも分からない。だから表情も、感情も、乏しくなる。
…自分は何者なのだろう。
唯一自分のものであるクラピカという名前すら、仮のものにすぎない。


  *  *  *


クラピカを肩車して、あたりを適当に散歩する。
それはイズナビの日課となっていた。
家に籠もってばかりでは息が詰まる。かと言って、松葉杖でもクラピカは歩けない。
おんぶでは、骨折箇所に負担が掛かる。だから肩車なのだった。
子ども用の車椅子でも与えてやれば解決するのだが、イズナビはそこまで自分は親切ではないつもりだった。実際には、肩車とどちらが親切なのかは、第三者から見れば疑問に思うところかもしれない。

「本当にこのあたりは、何もないのだな」
「そういう場所を選んで住んでるからな」

クラピカは自分の身長の二倍ほどの高みを堪能しながら、しかし変わらぬ無表情を保っていた。
自然ばかりが広がる視界がつまらない、というわけではない。
クラピカがこの家に来てから、およそ一か月半。そろそろ手足の骨折も、完治の兆しが見え始めていた。しかしクラピカの記憶は一切戻らず、空っぽのクラピカは相変わらず感情に乏しかったのだ。

「この家で厄介になるのは、とりあえず骨折が治るまで、だったな。あと二ヵ月程度だろうか」

布団の上に降ろされ、手指や足首を意識的に動かすリハビリを行いながら、クラピカは呟くように言った。相変わらず抑揚の乏しいその声に、しかし不安が滲み出ているように感じるのは、ただ言葉の持つ寂しさのせいであっただろうか。

「別に、完治した後もここに居りゃいいだろ」
「え……」
「ああ、別に親切で言ってるわけじゃない。先行き不安だと、記憶も戻りにくいだろうからな。いつまでも居ていい、だから安心して記憶を戻せ」
「それはまさに親切だと思うが……」

子どものクラピカに、大人流の遠回しな気遣いの台詞は伝わらない。

「……仕事は、何を?」
「説明したろ、ハンターだよ。プロハンター」
「そのハンターの仕事とやらは、何ヵ月もこの家に籠もり、私の世話をしながらでも出来るのか?」
「あーあーなるほど、子どもが 一人前に気を遣わなくてもいいっつーのに」

大きな手のひらが、わしゃわしゃと小さな頭を撫でる。

「お前がいてもいなくても、どうせオレの生活はこうだ。別に迷惑じゃない。お前の世話は思ったより面倒くせーけど」
「以前からずっと、一日中この家に?」
「一応、ある流派の師範代でな、たまに弟子志願者が来る。そんで教える。あとは晴耕雨読だ」
「畑などなさそうだったが…」
「例えだよ、例え。それぐらい気ままに生活してんの、オレは」

武骨な手が、慣れた所作で足の包帯を交換していく。くるくると手際良く巻かれた新しい包帯を、クラピカはそっと撫でた。
過去の自分がなぜ骨折し、何を悲観して記憶を封じたのかは分からないが、少なくともこの男に拾われたことは僥倖だとクラピカは思う。
ただ、家に籠もり、せっせとクラピカの世話を焼く男の姿が、クラピカの思い描く気高い “ハンター” の生き様に重ならないことについては、心にモヤモヤを生み出していたが。


  *  *  *


「……よし。腕も足も、もう固定の必要はなさそうだ。よく三ヵ月以上も我慢したな、偉いぞ」

クラピカは、イズナビの手を借り、おそるおそる立ち上がる。ようやく自由になった、腕と足。
立って歩くこと自体は、少し前からリハビリとして行っていたが、何も掴まず自分の体一つで歩くのは久し振りだ。いや、今のクラピカの記憶の中では、初めてだ。
と言っても、両脚ともに数ヵ月に及ぶ安静で筋が委縮してしまい、フラフラだ。これからリハビリを続けていかねばならない。だがそれはクラピカにとって、楽しみなことだった。やっと、歩けるのだ。

「……お。ようやく、少し笑ったな」

指摘され、クラピカは思わず自分の頬に手を当てた。
記憶を失って三ヵ月以上。人は生きている限り、いつまでも空っぽのままではいられない。
新しいクラピカの人格形成は、既に始まっていた。



歩けるようになったクラピカは、家事の手伝いを始めた。
炊事、洗濯、掃除。大抵のことは、慣れた所作でこなした。

「まだ小せぇのに、真面目に親の手伝いをしてたんだろうな」
「……お前は、掃除は苦手なのか? この台所は控えめに言って、かなり不衛生なのだよ」
「うっせ、使えりゃいいだろ」

最初こそ遠慮がちに「貴方」とイズナビを呼んでいたクラピカだが、最近は「お前」だ。
側から見れば失礼な物言いだろうが、イズナビはむしろ、それで良いと思う。なにしろ二人きりで暮らしているのだ、遠慮は互いのためにならない。

「お前さ、その堅苦しい喋り方も、そろそろやめにしねぇ?」
「堅苦しい……」
「名付け親だしな。肉親だと思って、砕けた感じで喋ってくれて構わねーぞ」

クラピカは少しばかり、困ったように眉尻を下げた。

「それは、難しい。……どうやらこの言語は私の母語ではなく、使用経験も乏しいようだ。あえて言葉を砕くには、もう少し経験を積む必要がありそうだ」
「母語じゃねーのか。確かに敬語っつーより、文語みたいな硬さだもんな。そうか、独特の言い回しも…」
「え?」
「……いや、」

面白いから黙っておくのだよ。


  *  *  *


「私も、街へ連れて行ってほしい」

その週末、いつも通りに街へ降りるイズナビに、クラピカは初めてそれを願い出た。

「骨折、治ったばっかだろ」
「もう歩ける」
「だーめーだ。山道なめんなよ、大量の本とお前を担いでここに戻るのは、さすがのオレでも荷が重い」
「歩ける。迷惑はかけない」
「駄目だ。リハビリに専念しろ」

クラピカは、この三ヶ月以上、イズナビに逆らったことはない。記憶喪失により自我に乏しかったからか、世話になっている引け目からか、そもそも逆らいたくなるようなことが無かっただけなのか。
とにかくこの日初めて、クラピカは強く主張した。

「もう三ヶ月以上、記憶が戻らない。時間が経つほど、失った記憶は戻りにくくなる。記憶を取り戻す近道は、記憶に繋がる刺激を得ることだ。ここにいて、本を読むばかりでは駄目なのだ…!!」

声を荒げそうになるのを押し殺したような、静かな興奮を滲ませた表情。
イズナビは思わず目を見張った。

「お前、その眼、」
「………あ」

瞳の変色に気付き、クラピカはこめかみに片手を当てる。

「こんなことで興奮するとは、不覚だ」

自身がクルタ族であることを覚えていないクラピカは、その特質が一族固有のものであることもまた忘れていた。

「……分かった、連れて行ってやるよ。だから落ち着け」

クラピカの瞳が鎮まるのを待ってから、イズナビはクラピカを肩車して下山した。
当然クラピカは、自分で歩けると何度も主張したのだが。

「いいんだよ、下り道は足に負荷がかかるからな。帰り道、登りは歩いてもらうから体力温存しとけ。……あと、まあ、思い出作りだよ。子どもの成長は早いからな、肩車なんか出来る時期は貴重だ」

納得してしまえば、クラピカの前に広がるのは高い視界。
普段の倍近い高さと、自然ばかりとはいえ見知らぬ景色に、クラピカは子どもらしい興奮を覚えた。
自分の身長では届かない位置にある何気ない木の枝に、意味もなく手を延ばしたくなる。
クラピカは、既に空っぽの子どもではなくなっている。肩車を楽しむことも出来るし、さっきは久し振りに眼の色を赤くした。
感情や表情の芽生えはクラピカの毎日を豊かにしたが、しかし同時に、記憶を失う以前の自分と乖離していくのではないかと不安も増していく。

「そういえば、私はどこに倒れていたのだ?」

イズナビは平坦な声色で、前を見たまま答えた。

「山の中。道なき道で」

つまりはこの周辺に迷い込み倒れていたのだろうと、クラピカは思う。


結局、街でもクラピカの記憶を引き戻すきっかけは得られなかった。
街の人混みには慣れられず、クラピカはずっとイズナビの手を握り締めて歩いていた。おそらく自分は元々、人口密度の低い地域で暮らしていたのだろうと、そう思いながら。


  *  *  *


クラピカは、イズナビと寝室を共にしている。
元々、クラピカの容体が夜中に急変しても対応できるようにとイズナビがそうしたのだが、発熱や骨折が治った今でも、わざわざ寝室を分けることはなかった。

「眠れないのか」

幼いクラピカの方が、寝付くのは早い。だから寝られない夜は、こうして簡単にバレてしまう。

「最近の私は、少しばかり、笑うことが増えた」
「良いことじゃねーか」
「笑う度に、感じる。記憶を失う前の私は、表情筋を使い慣れていたようだと」

今のクラピカは、笑うと言っても、ごく控えめな微笑ばかりだ。スタート地点が記憶喪失による無表情なのだから、仕方のないことではある。
だが使い込まれて発達した表情筋は、物足りないとクラピカに訴える。きっと本来の自分は表情豊かだったのだろうと、クラピカは思う。

「まあ、とにかく来い。ほら、こっち」

イズナビが、迎え入れるように布団を持ち上げる。
クラピカはいつも通りに、イズナビの隣へと潜り込んだ。

眠れない夜は、幾度目だろう。
『お前、年はいくつだ……って、分かんねぇんだったな。まぁ十歳前後だろ。そんぐらいの年齢なら、怖い夢を見た夜に親の布団に潜り込むぐらいするさ』
『親…』
『名付け親』
最初はそう言われた。それからは、骨折が治るまではイズナビがクラピカの布団へ、治ってからはこうしてクラピカが移動して、同じ寝床で眠るのだった。

ポンポンと布団越しに腹を叩かれて、子どもを通り越して幼児扱いではないかとクラピカは内心、憤慨する。
ただ隣に感じる体温が心地良くて、クラピカは今夜も、思いの外すぐに眠りに落ちるのだった。


  *  *  *


クラピカがこの家に来てから初めて、イズナビの元に弟子志願者が訪れた。
修行内容は内密だとかで、クラピカは日中、彼らの修行場所から遠ざけられた。
ただ、遠くからたまに見えるイズナビの姿は、普段の穏やかな所作からは想像もつかない、洗練された一流の武人のそれだった。

「私にも武術の稽古をつけてほしい」

クラピカは既にリハビリも完了し、自在に野山を駆け回れるようになっていた。

「んー、駄目ってわけじゃねぇが、オレの稽古は厳しいからな。動機もなく、試しに強くなってみたいってことなら、長続きしねーぞ」
「動機ならある。いざという時に、お前を護れる強さが欲しい」

……オレを?
一回り以上年下の子どもに言われた予想外の言葉に、イズナビは一瞬、言葉をなくした。
しかしクラピカの眼差しに、その真剣味を察する。現時点での実力差や体格差ではない、この子はもっと先を見据えているのだ。

「護りたい相手から武術を教わるってのも、なかなかおかしな話だな」
「それは…、そうなのだが……」

イズナビは、クラピカの両脇に手を差し入れ、ひょいとその体を持ち上げた。
クラピカは多少ジタバタと慌てたが、イズナビと顔の高さが合うと、大人しく向かい合った。

「クラピカ、お前、両利きだったな」

骨折で右腕が不自由な間、クラピカは食事や筆記で、左手を利き手のごとく使いこなしていた。しかし骨折が治ると、むしろ右手を利き手として使い始めたので、イズナビは驚いたものだった。

「オレが昔使ってた武器、お前にやるよ。使いこなせそうだ」

双節棍。二つの棍を紐で連結させた武器。
イズナビの稽古に遠慮は無かった。もちろん肉体面は未成熟であることを考慮したが、精神面ではプロハンターと同レベルのものを要求した。
クラピカは、時に嘔吐し、時には気絶しながら、弱音一つ吐かなかった。

「正直、これほど強いとは思わなかった」

気絶した子どもを運びながら、イズナビは呟いた。

「何かを護りたいってのは、良い動機だ。一生、そんな正の感情で、お前が生きていければ…」





もう半年近く、クラピカの記憶は戻らない。
これほど長く戻らないとなると、このまま生きることも真剣に考えなくてはならない。
考えた時に、クラピカは思ったのだ。
この男をなくしてしまったら、自分は一人ぼっちになるのだと。
だから強さが欲しかった。いざという時に、無力のまま後悔しないように。


  *  *  *


「来週にも、この家を出ようと思う」

ある日クラピカは、その決心を告げた。
拾われてから、約九ヵ月。イズナビの指導により、武術の基礎を身に着けた頃のことだった。

「……記憶が戻ったのか?」
「いや。だが厚意に甘えてばかりの今の生活を、いつまでも続けて良いはずがない」
「何故だ?」
「何故って、お前に迷惑が…」
「迷惑そうに見えるのか?」
「仮に迷惑でなくとも、一方的に寄りかかるばかりの生活は不健全で歪だろう」

この子はまったく、発想が子どもらしくない。
目の前で正座する子どもを前に、イズナビはわざとらしく溜息を吐いた。

「オレを護るだとか言ってたくせに、離れる気か」
「当然、有事の際には何を置いても帰る。ただ、自立もできずに側にいることが、互いのためになるはずがない」

イズナビは、子どもらしくない子どもの頭を、ヨシヨシと撫でた。

「心掛けは立派だ。だがお前、自分は子どもだってこと、完全に忘れてるだろ。十歳そこそこの子どもなんざ、親に迷惑かけて一方的に寄っかかって当然だろうが」
「親なら許されるのだろうが、お前は赤の他人で…」
「他人じゃなくて、名付け親」

イズナビは言い聞かせるように、ぽんぽん、と頭を軽く叩く。

「不健全でも歪でもねーよ。大人になるまでオレの家にいればいい。大人になって、一人で生き抜けるようになるまでは」
「今の私でも、一人で生き抜く力はあると、」
「だーめーだ。子どものまま出て行くなんざ、監禁してでも許さねぇ。大体お前、死にかけで倒れてただろ。あれが一人で生き抜こうとした結果じゃねーのか」

クラピカは言葉に詰まる。それを言われては、弱い。

「何年でもいい。気にせずオレに面倒かけ続けてりゃいい。お前は子どもだ、親の庇護下にいてもいいんだ。名付け親、だが」

……名付け親。
最近はそう聞く度に、胸が温かくなるのをクラピカは自覚していた。
男の年齢も、自分の年齢さえ分からないが、しかし親子と言って差し支えない年齢差はありそうだ。
名付け親。本当に肉親のように、慕っても良いのだろうか。

大人になるまで、何年でも。


  *  *  *


この地方には四季があった。
春には花の名を、夏には虫の名を、クラピカは得意げにイズナビに教えた。秋にはどんぐりを拾って食べ、冬には屋根の雪下ろしをした。
週に一度、共に街へ降りると、今度はイズナビが教える番だった。バスの乗り方、レストランでの注文の仕方、そんな何もかもがクラピカにとって初めての経験のようだった。
クラピカの髪は、イズナビがカットした。床屋で見知らぬ手に触れられるのを、クラピカはあまり好まなかった。
朝に弱い、というより夜更かしを好むイズナビは、よくクラピカに叩き起こされた。生活リズムの乱れが自律神経に及ぼす影響について、しばしば説教された。
年に一度、それなりに豪華なケーキを食べた。イズナビがクラピカを拾った日、それをクラピカの「誕生日」にして。
「誕生日」は、三度、巡った。
いつの間にかクラピカの背が伸び、肩車や添い寝は自然消滅して、だけどそれを埋めるように、二人の距離は近付いていた。

「親子、ですか?」

新しくイズナビの元を訪れた弟子志願者の言葉に、二人は顔を見合わせ、ごく控えめに笑った。

季節は穏やかに、あるいは、あっという間に巡った。
三年半が、経とうとしていた。





  *  *  *





その日は、突然に訪れた。

『 ディノ・ハンター 』……図書館でイズナビが、クラピカのために選んだ一冊の本。
クラピカはその本に覚えがあった。覚えがあるどころか、一言一句すべてを暗記していたらしく、ページを繰れば目で追うより先に次の文章が頭に浮かんでくる。暗記するほど、繰り返し読んだということだろう。
過去の自分が何を考えてこの本を読んだのかは、思い出せない。
ただ、表現しがたい焦燥感に襲われた。

心が躍る、夢と勇気に溢れる大冒険。
困難に負けるな、頑張って生きてみろ、そんな熱く勇敢なメッセージ。

そして山奥でただ日々を過ごしている、今の自分。

クラピカの鼓動が、トクトクと早まる。
本から目が逸らせない。
繰り返しこの本を読んだ、過去の自分。
読んで、何を考えた?
ハンターになりたかったのか? ……いや、しっくりこない。
では、冒険したかったのか?

……広い世界を、楽しみたかったのか?

瞬間、胸の奥が弾けるように痛んだ。
記憶には繋がらない。だが、クラピカは確信する。
ここに留まっていてはいけない。
自分は、この世界を、旅しなくては。

「クラピカ、まだ起きてたのか」

イズナビが寝室に入ると、クラピカは未だ座って本を広げていた。
就寝前に本を読むのはクラピカの日課であったが、普段は、イズナビが寝室に入る前には既に寝入っている。

「この本。見覚えがある」
「あれ、前も同じの借りたっけか?」
「違う、記憶を失う前の話だ」

クラピカは思う。
きっとこの本に憧れ旅した結果、死にかけた自分。記憶を失うほどのショックを受けた自分。
けれどほら、D・ハンターが教えてくれたとおり、そんなピンチには優しい人が現れ、救ってくれたじゃないか。
ならば、旅を続けるべきではないか。それが記憶を失う前の自分の本意で、記憶を取り戻す唯一の道ではないか。

「……来週にも、この家を出ようと思う」

クラピカは本に目を落としたまま、そう告げた。
何年も前に口にしたのと、同じ台詞。

「……記憶が戻ったのか?」
「いや…」
「なら、オレの答えは同じだ。子どものまま出て行くなんざ、監禁してでも許さねぇ。本見て何を思ったか知らねぇが、そういうことは “なんとなく” の直感で即断すんな」

クラピカは顔を上げ、イズナビを見上げた。

「お前に監禁されたら、私の力では逃げられるはずもないな」
「当然だ。諦めろ」
「………いつまで、」

クラピカは本を置き、立ち上がる。

「いつまで、子ども扱いなのだ」

イズナビの元へ、つかつかと歩み寄る。
その身長は、イズナビの肩口より少し下。昔は届かなかったその胸倉を掴んで、クラピカはイズナビの顔を射抜くように見上げた。

「よく見ろ。もう、子どもではない!」

イズナビは黙って、自分の胸倉を掴む子どもを見下ろした。
子どもだ、間違いなく。贔屓目に見ても確実に成人前だ。
だからまだ、大人の庇護下にいるべき存在だとイズナビは思う。

だが同時に、もう止められないだろうとイズナビは理解した。
クラピカの表情の変化、感情の発露は、いつもごく控えめだ。記憶喪失による張り付いた無表情、そして人格を失い動かない心が、少しずつ改善された結果が今のクラピカだからだ。
そんなクラピカが、これほどに苛立ちを顕わにしている。ただそれだけで、イズナビが諦める理由としては充分だった。よほど大きな何かを、本から感じたのだろう。自分が何を言おうと、本当に監禁でもしなければ、もう止められないだろう。

甲高かった子どもの声が、落ち着いた低音に変わった。
腰の少し上だった身長が、もう少しで肩口に届くまでになった。
……潮時かもしれない。

「だがまあ、大人、って感じじゃないな。第二次性徴が終わったかどうかってとこだ」

イズナビが穏やかにクラピカの手を叩くと、クラピカは素直に、イズナビを掴む手を離す。

「背、伸びたな。あの頃は、お前を抱いて山を歩くのも苦じゃなかったが、今はキツそうだ」

懐かしむようなその声を、クラピカは黙って聞いていた。クラピカにも、思うところはあるのだろう。
三年以上も暮らした家を出る。一見すれば、唐突な決断。
だがこの三年、クラピカは穏やかな毎日を送ってはいたが、常にどこか不安だったに違いないとイズナビは理解する。

「お前の話をする前に、オレの話をしようか」

要は、言い訳だ。

「一応オレはプロハンターで、まあ師範代なんか任される実力はあるわけだが。そんなオレが山に籠ってばかりなのを、どう思う」
「…怠けている……」
「おいコラ」
「………わけではないと思う」
「…ま、いいけどよ」

イズナビはクラピカに背を向けた。

「ハンターやってるとな、よくあるんだよ。眼の前で消える命。助けられたかもしれない命。……まあ、そのうち慣れはする。消えた命が同じハンターなら、殉死として弔う。不運な道を選んでしまった大人なら、ただ冥福を祈る。しかし、子どもの死は…」

子ども。
良く言えば大人の庇護下で、悪く言えば大人の監視下でしか、生きられない存在。

「子どもに選択肢はない。ただ生まれた場所や境遇に翻弄されるしかない」
「そんなことは…」
「自ら選び取ったようにみえた道も、大人の巧妙な操作や、経験不足による視野の狭さで、本当に選びたい道を選んじゃいない。少なくとも、オレの眼の前で死んだ子どもは」

そしてそれ以来、この山に籠もったまま。

「手の届く距離で死んだ。境遇に翻弄されるままに死んだ。助けられたかもしれなかった。ちょうど、倒れてたお前と同じぐらいの年頃で、髪の色も似ていた。…ボロボロのお前を拾った時は、正直、運命だと思ったよ。お前を無事に大人にしてやることがオレの……」

贖罪。
ごく小さな声で、そう言った。
だからクラピカの素性に気付いても、言えなかった。無事に大人になるまではと。

「結局、大人になる前に、逃げていっちまうみてーだけどな」

クラピカは、何も言えなかった。
この男の厚意を無視してこの家を出ようとしているクラピカには、言葉の掛けようもなかった。

「そもそもお前を拾った山に行ったきっかけも、たまたま闇オークションで見た子どもの生首だ。その子が狩られた場所へ赴いて追悼したくなった」
「……私を拾ったのは、この近辺ではないのか」
「ん、ああ、そうだな。お前の話に戻ろう」

イズナビはクラピカに向き直る。

「まず、お前の名はクラピカだ。オレが名付けたわけじゃない。意識を失う直前に、お前から直接聞いた本当の名前だ」
「何故、そんな回りくどいことを」
「心因性の健忘なら、しばらく思い出さない方が良いと思った。外傷も酷かったから、しばらくは療養に専念すべきだと。だから記憶に繋がらない適当な名前を付けようとして、でも、奪えなかった」

なんだかんだ名付け親だと言い張れる日々は楽しかったと、イズナビは付け加える。

「名前以外、何も知らずに拾ったのは本当だ。だが今は、少しは知っている。どうせ出て行く気なら、分かる範囲で全て教える。ただし残酷な話だ。知らない方が、きっと幸せに生きていける。…それでも聞く覚悟はあるか」

クラピカは迷いなく頷いた。
覚悟というのなら、記憶を失ったまま生きていくのだって大きな覚悟が必要だ。同じ覚悟なら、どんなに残酷だろうと、自分を知る覚悟の方が良い。

「……お前の素性が分かった理由は、その眼だ。興奮すると眼が赤くなる、それはクルタ族固有の特質だ」

そうしてイズナビは説明した。
クラピカが倒れていたのは、クルタ族が暮らしていた森のはずれであったこと。
その赤い瞳は緋の眼と呼ばれ、発現したまま死ぬと緋色が定着すること。
緋の眼は闇の売買人の間で、数億以上の値で取引されていること。
クルタ族は、クラピカが倒れていた頃、賊に虐殺され全滅したこと。
調べた限り、賊は幻影旅団というA級賞金首であること。
緋の眼はすべて、幻影旅団に奪われたこと。

イズナビは、こんな日を予感して保存しておいた当時の新聞記事の切り抜きを、クラピカに渡す。

「クルタ族は外の者との交流に慎重で、ほとんど森の外に出なかったらしい。特に子どもだったお前は、森から出たことはなかっただろう。だからおそらく、お前を知る家族友人は、既にこの世に誰もいない」

自らの孤独な素性を聞きながら、クラピカは眼の色を変えることも、取り乱すこともなかった。記憶を伴わず、言葉だけで理解するそれは、他人事のようで実感が湧かなかった。
ただ、何故か胸の奥が疼くように痛んだ。
それは、自分が孤独であることを知った痛みだろうか。
それとも、封じられた記憶が思い起こされようとしているのだろうか。

「……それと、記憶の手掛かりになるかもしれないから一応話すが。倒れていたお前はシャツ一枚で、他に何も着ていなかった。そして明らかに、誰か男に犯された……乱暴された形跡があった」

ゆわん、と突如クラピカの視界が揺らぐ。次には、頭がズキズキと痛み出す。
男に犯された、乱暴された。性的知識に乏しいクラピカは、その表現から具体的な性行為を想起することはできない。そのはずだった。
しかしクラピカの脳裏には、黒服、黒髪の男が浮かんだ。その黒い男はクラピカにのしかかって、クラピカの体を、

「……おい。すごい汗だぞ、お前」

クラピカは微かに青褪め、震えていた。
イズナビは宥めるようにその背をさすった。
それでも震えの治まらないクラピカを、イズナビは、そっと抱き締めた。怯える幼子を腕に抱くような気持ちで。

「大丈夫だ。ショックを受けて当然だ、突然こんな話…」
「違…う……」
「クラピカ?」
「……思い出す…、もう少しで…」

肌を好き勝手に這いまわる手。 唇の、舌の、生温かい感触。潜り込んできた固い指。そして、
……『 消えてなくなってしまいたい 』。

「〜〜〜……ッ」
「クラピカ!?」

吐き出しそうな気持ち悪さに襲われ、思わず口を押さえてその場にしゃがみ込む。
だがもう少しだ、もう少しで思い出せる。
あの男は。 あの、黒い男は。
……しかしそこで、フラッシュバックは止まった。


「………ッ」
「クラピカ」
しゃがんだままのクラピカの体が、優しい体温に包まれる。
震える体は、冷え切っていた。


何故、思い出せない?
クラピカは疼痛を訴える頭を両手で抱える。
肌を好き勝手に這いまわる手。 唇の、舌の、生温かい感触。潜り込んできた固い指。そして、
……思い出せない。ここから先が、思い出せない。
何をされたのかは想像がつく。行為のやり方は知っているから。何故知っているのか、それはきっとこの時に、されたからだ。ただそれは単なる知識で、具体的な記憶ではない。
クラピカは、その先の記憶を思い出すために、思い出せる部分を何度も何度も繰り返し脳内に描いた。おぞましく厭わしい手、唇、舌、指。 思い返す度に鼓動が早まり、心臓が痛く、視界が歪んだ。
それでも、その先が思い出せない。
だがそこに、記憶を失った直接の理由がある。間違いない。
潜り込んできた固い指。そして……、……、
クラピカの息は、自然と荒くなっていた。
もう少しで思い出せる。三年以上も空白だった記憶が、埋まる。
何かきっかけがあれば。何か。
……クラピカはふと、自分を包み込む男の温かな手の大きさに気付く。
………記憶の、きっかけ。

「……頼みがある」
「何だ?」
「私を、犯してほしい」

腕の中、震える子どもからの唐突な頼みに、イズナビは息を飲んだ。
冗談じゃない、馬鹿を言うな。そう一蹴できればどんなに楽だろう。
しかしクラピカがどんなに切迫した思いでそれを口にしたのか分かったから、にべもない拒絶は出来なかった。

「……明日、お前の故郷に行こう。故郷の森を見れば、きっと思い出せる…」
「明日では駄目だ! この感覚が遠のく前に…っ、今! 今でなければ!! もう少しなんだ……!!」

しゃがんだままイズナビの両肩を掴み、クラピカはその顔を見上げる。

「頼む、犯してくれ……ッ」

距離が近い。イズナビは思わず、眼を逸らした。

「そんなことで、本当に思い出せると思うのか」
「思い出せる」
「思い出せなければ、体も心も徒に傷付くだけで…」
「思い出せるッ!!」

緊迫した叫びに、イズナビは目を逸らすのをやめた。
真摯な眼差し。クラピカは本気だ。
……イズナビは、これまでの三年以上の月日を思い起こす。
小さかった。身長は、イズナビの腰のあたりまでしかなかった。よく肩車をした。不安がる夜には寝床を共にした。
好き嫌いせずよく食べた。成長期なりに身長はぐんぐん伸びた。いつの間にか、肩車をしてやれるような身長ではなくなっていた。今の身長はイズナビの肩より少し下。まだ伸びていくような、もう止まっているような、第二次性徴が終わったか終わらないかといった幼さの残る体。
子ども特有の高い声は、今は落ち着いた。ごく控えめな喉仏。
街ではたくさんの物事を教えた。師として、戦闘術も教えた。一緒に食べて、寝て、成長を見守って。亡くなったであろうこの子の実親には申し訳ないが、本当にもう、半ば親のような情を抱いている。

「頼む……」

……倒錯感に目眩がした。
我が子のように大切に育ててきた子どもが、抱いてほしいとせがんでいる。
せめて成人していれば、罪悪感は薄れたかもしれない。しかし目の前の子どもの目鼻立ちは、明らかに幼さを残していて。

「私を、犯して……っ!!」

それでも、この子が大切だから。大切だからこそ、その望みを無下にはできない。
……だから百歩譲って、優しく大事に抱くことならば、あるいは可能かもしれない。だけど。

「…お前が望むのは、乱暴に犯されることだよな」

クラピカは、コクリと頷く。
オレが、乱暴に、この子を? 想像するだけで胃が痛み、イズナビは顔を顰めた。
何故、こんなことに。
クラピカの真剣な瞳を見つめ、それからイズナビは一度目を閉じ、大きくゆっくりと溜息を吐いた。
…三年以上の記憶喪失。どれほど心細かったろう。もっと早くクルタ族だと教えてやれば良かったのに。黙っていたのはただ、この子を安全な場所で穏やかに育ててやりたくて、復讐に走って砕け散るこの子を見たくなくて、つまりは自分のエゴでしかないのだ。
その結果、こんな事態を招いている。ならばせめて、この子の望みを叶えてやるぐらいの責任は、取るべきだろう。
イズナビは意を決し、今度こそ真正面から、クラピカの顔を見据えた。

「乱暴にってのは、そりゃされる方も辛いが、する方も精神にクるんだぞ。お前だって、無抵抗のオレに本気で殴り掛かれって言われても困るだろ」
「それは……、だが…」
「……それを踏まえたうえで、だ。 やってやるよ、乱暴に。けどお前、何されても絶対、嫌だとか叫ぶなよ。オレがキツいから」
「…あ……ッ」

言い終えるなり、イズナビはクラピカの体を布団へと手荒に突き飛ばす。
そしてクラピカが身構える隙も与えずに圧し掛かり、シャツの隙間から手を差し入れた。

「……っ」

乱暴と一口に言っても、程度の差はある。どうせやるなら、出来る限り失われた記憶に繋げるべきだ。
イズナビは、倒れていた当時のクラピカの姿を思い返す。裂かれたシャツ、胸元を中心に散る赤い痣、血に濡れた局部。
…どんなに残酷でも、遠慮は互いのためにならない。だからイズナビは覚悟を決める。

「…あ……っ、……ッ」

手はまず、上半身に這わされた。少しだけ冷えた温度が、クラピカの肌を侵食する。
更に胸の尖りを予告なく摘まみ上げられ、クラピカは思わず目を閉じ、体を跳ねさせた。
身体を襲う感覚に耐えるために、両手でシーツを掴み締める。

「ひゃ……ッあ」

喉元に、齧り付かれる。
そして唇は無遠慮に、肌を辿りながら下へ降りていった。
邪魔だと言わんばかりにシャツの襟もとを引き裂かれ、露わになった鎖骨やその周囲を、舌で、あるいは歯で、次々と刺激され、あるいは痕を付けられていく。

……これが、乱暴されるということ。
自分を育ててくれた大人の手のひらを感じながら、クラピカは薄く開けた瞳で天井を見つめた。
不思議と、恐怖はなかった。恐怖を感じなければ、あの日のことを思い出せないだろうか?
いや、あの日も確か恐怖はなかった。もちろん、恐怖のない理由はまったく別だったはずだが。
だからこれでいい。クラピカは緊張に固くした体で、慕っている相手からの粗雑な愛撫を受け入れる。

「あ…っ」

イズナビは おざなりなペッティングを終えると、下着ごとクラピカのズボンを脱がせてしまった。リクエスト通り乱暴に。
そうしてクラピカの、まだ力のない芯を、少しだけ擦り上げる。

「は、あ…ぁっ」

反応を示したあたりで擦るのをやめ、秘所へと指を滑らせる。
……こんな行為で、オレはその気になれるのか。イズナビは最初そう心配していたが、全くの杞憂だった。大切なはずの体を乱暴に扱って、それでもイズナビは欲情を催していたのだった。

「……ッ!!」

遠慮なく奥まで潜り込んできた指に、クラピカはビクンと身を竦ませた。
そして同時に、頭のどこか奥がチリチリと熱くなる。

……記憶が、思い起こされる。
腕を折られようが脚を折られようが構わない。肌をいくら蹂躙されても構わない。手足をもがれようが、そのまま殺されようが、目を抉られようが、きっと構わなかった。
けれどその行為は違ったのだ。自分の中に、同胞の仇を、受け入れるという行為は。

「…あ……」

脚を持ち上げられる。視界に入る男の手と、自分の脚。
記憶が重なる。今よりもっと細く頼りない両足が、軽々と持ち上げられ、開かれる。
そして酷く苦しげな表情でクラピカを見下ろす男の顔に、あの黒服の男が重なった。あの男はもっと楽しそうに、微笑を湛えてクラピカを見下ろしていた。
恥部に、熱が押し当てられる。現実なのか、記憶なのか、もはや混じり合って分からない。記憶の中のクラピカは、その熱の正体を知らなかった。知らないままぼんやりと、男の微笑を見ていた。これが同胞の仇なのだと、見ていた。

「ひ、ぁ……ッ!!」

儚い悲鳴とともに、圧倒的な体積が、クラピカの中に入り込む。
降りしきる雨の中、黒服の男は一切の配慮なく、クラピカを突き動かした。
身体を裂かれるような鋭い痛み。しかしそれは、腕や脚を折られてさえ動じなかったクラピカにとっては、詮無きものだった。
クラピカの芯も多少擦られたが、クラピカはほとんど反応しなかった。
すべての同胞を喪った絶望の世界に、恐怖も苦痛も、快も不快もなかった。
その絶望の元凶に揺さぶられる度、か細い声を漏らしながら、クラピカは虚ろな瞳で考えていた。自分は一体、何をされているのかと。

やがて、クラピカの中に生温いものがぶち撒けられる。

クラピカはその頃には、自分のされている行為をおぼろげながら理解できていた。
自分の中に、同胞の仇の汚物を受け入れさせられた。
自分は、男と繋がってしまった。忌まわしき男と自分が、深い部分で混じり合ってしまった。
そこに悲しみはなかった。仲間を喪う以上の悲しみなど、この世に存在し得なかった。
ただ、汚いと思った。厭わしかった。陵辱された自分を、受容出来なかった。

『 消えてなくなってしまいたい 』






「思い出したんだな、クラピカ」

聞き慣れた低い声に、クラピカはハッとする。
イズナビはクラピカの中に強引に入ったものの、一切動いてはいなかった。

「今、オレのこと、見えてなかったろ」

言いながら、大きな手のひらが、クラピカの両眼から次々と溢れ出す涙を拭う。

ああ、そうだ、あの日も。
大粒の雨に紛れ、自分でも分からなかったけれど。
泣いていた。クラピカは確かに、泣いていたのだった。

「全部、思い出したのか」

クラピカは頷く。
連鎖するように次々と、記憶はクラピカの内に蘇っていた。
黒服の男に襲われる前、森をフラフラと歩いていた。……墓を掘った。……外の世界で同胞の虐殺を知った。……パイロと約束した。……森で同胞と穏やかに暮らしていた。

溢れ出る涙が、あの日の記憶とのリンクによるものか、それとも全ての同胞を喪った哀しみがようやく今流れ出しているのか、クラピカには分からなかった。
ただ、温かな手に涙を拭われながら、思う。
こうして思い出せて良かった。こんなことをしなくても、もしかしたら、立ち並ぶ 墓を見れば思い出せたのかもしれない。 でもこの男に抱かれながらでなければ、自分はもっと取り乱していた。

「……とりあえず、もうコレは必要ないな。抜くぞ」
「!! や……ッ」

引き攣れるような感覚に、クラピカは思わず、男の肩口を掴んだ。

「やめるな! 続けろ、最後まで…!!」

その切迫した表情に、イズナビは動きを止める。

「今、やめられたら……あの男にやられたのが、最後の記憶に、なってしまう」
「…そりゃつまり、オレで上書きしたいってことか」

クラピカは控えめに、頷く。
「勘弁してくれ」そう言えたら楽だっただろう。「上書きなんて、この先お前が恋仲になった相手といくらでもやってくれ」そう、言えたら。
けれど言えなかったのは、この先クラピカの選ぶ道を直感していたからだろう。恋や愛とは無縁の、孤独な修羅の道。
この子が他人と肌を重ねるのは、きっとこれが最後になる。オレが最後の相手になる。イズナビはそう、理解っていた。

「分かった、最後までやってやるよ。ただ、記憶は戻ったんだから、後はオレのやりたいようにやらせてもらう。嫌がろうが泣こうが喚こうが無駄だ。いいな?」

クラピカは息を飲み、頷いた。身構えるように両手でシーツを掴み締める。
ただでさえ、結合部は鈍痛を訴えている。だが、どれほど手酷く扱われようとも構わない。酷ければ酷いほど、あの日の行為を上回る激しい記憶としてこの身に刻まれる。

しかしクラピカを襲ったのは、柔らかな唇の感触だった。

「…ッあ、ん 、ん……!?」

驚きに思わず口を開けた拍子に、舌が口腔に入り込んでくる。
キスは、初めてではなかった。あの黒服の男も、好き勝手にクラピカの口内を蹂躙した。
けれどこれは、クラピカの記憶にあるそれとは全く異なっていた。
舌の動きはやけにゆっくりだった。クラピカは翻弄されることなく、口内に他人の舌が蠢く感触をじっくりと教えられた。
逃げたければ逃げろと言わんばかりに緩やかに口内を犯しながら、しかしイズナビの手はクラピカを決して逃がさぬよう、強く顎を押さえ込んでいる。

「ん…ッ、んぅ、んん……ッ!!」

クラピカが慣れた頃を見計らって、舌はクラピカを試すように責め始めた。
歯茎の裏、舌の裏筋、上顎の奥。動き自体は穏やかだが、明らかにクラピカの弱い場所を狙い澄まして舐め上げる。クラピカが強く体を震わせようものなら、暫くそこばかりを執拗に責め続ける。
顔を思いきり殴りつけてでも今すぐ解放されたいのを、クラピカは必死で堪えた。行為を続けるよう頼んだのは、せがんだのは自分だから、受け入れねばならないと、ただ震える手でシーツを握り続けた。
背筋がぞわぞわする。何かに浮かされるように、ふわふわする。脳が溶けるように、痺れる。
それはクラピカにとって未知の感覚だった。それが『 快楽 』 と表現される感覚であることを、クラピカはまだ知らなかった。

「……ッはぁ、はあ……は、…はー……」

ようやくの解放を受けたクラピカは、ぼやりと蕩けた瞳で、目の前の男を見上げる。

「……そんな顔も出来るんだな、お前」
「………?」

どんな顔だというのか、息を整えるばかりのクラピカには理解出来なかった。

「っあ、や……ッ」

耳を食まれて、おもわず声を上げる。そのまま留まった男の口は、クラピカの耳を甘噛みし、唇でしごき、舌で舐め上げた。
同時に、シャツの下の肌に手を這わされる。片方の胸の尖りを、今度は優しく、掠めるように淡く撫でられた。体が甘く痺れて、クラピカは熱い息を一つ吐き出した。
クラピカは、わけが分からなかった。性行為の知識を、犯されたあの日の経験以外に持たなかったからだ。
この男が動いて、出せば、終わる。なのに男は動こうとはせず、ただクラピカの体を触ってばかりなのだ。

「あ……ッ、あ、何、を……?」
「何って、分かるだろ。可愛がってんだよ」
「…そんな……」
「オレのやりたいようにやる、って言ったろ」
「っあ………!!」

耳に舌を挿し込まれて、クラピカはビクンと体を跳ねさせる。
そのまま舌は、ぐちゅぐちゅと濡れた音を響かせながら、耳の中を掻き回した。
指先は、片方の胸の先端をカリカリと優しく引っ掻き続ける。
全身を襲うもどかしい痺れの正体が分からずに、クラピカはひたすらシーツを握り、震えるしかなかった。

「可愛がる…という、より、……いじめじゃないか…っ」
「はん? 虐めてほしいのか?」

鼓膜を震わせた低い声に、クラピカはぎくりと身を竦ませる。これが虐めでないのなら、虐められたらどうなるのか。

「……冗談だよ。子ども虐めたって楽しくねぇ」

荒くなる呼吸を必死で鎮めながら、それでもクラピカはやはり、これは虐めだろうと思った。
クラピカを覗き込んだ男の表情が、実に楽しそうであったからだ。

「ん……ッ、ふぁ…」

今度は両方の胸先を、両手の指で弄られる。
器用な指先は、左右で統一感なく動き、左右別々の刺激をクラピカに与えた。
片方が優しく摘まみ上げられたと思えば、片方は押し潰すようにぐりぐりと揉み込まれる。
思わず少し身を捩り、しかし僅かでも動けば入ったままの熱い楔が擦れてクラピカを苛むため、クラピカはただ目を閉じ、動かぬよう震えているしかなかった。
イズナビの唇は、クラピカの額に、目蓋に、頬に、鼻先に、慈しむような口付けを次々に落としていく。

「ん…、……っ、……ッ」

クラピカは自身の異変に気付き、思わず右手で閉じたままの目を覆った。
……興奮。それが、この眼の色が変わる理由だ。
思い出したばかりの記憶を総動員しても、今、色を変える理由は思い当たらなかった。

「目、赤くなったんだろ?」
「………!!」
「表情あんま変わんねー割に分かりやすいよな、お前は」

おそるおそる、クラピカは目を開けてみる。
視界に入ったこの男の微笑を、クラピカは初めて、いやらしいと感じた。

「オレに抱かれて興奮してるんだな、クラピカ」
「……ッ」

ズバリ言われて、クラピカは目を逸らす。
……興奮。この行為は、興奮するものなのか。
クラピカは言われてようやく、全身の昂ぶりに気付く。火照ったように熱い肌。とくとくと早まる鼓動。まだそこに “ 快楽 ” という単語を見出せないクラピカにとって、興奮の二文字は、自身の状態を表すのにまさに適格だと思われた。

「そろそろ、出しとくか。……触るぞ」
「……ッ!?」

大きな手が、未だ柔らかな中心を優しく扱くと、クラピカは驚きに目を見開いた。

「あ……ッ、は…ぁ、…あ……?」

体中で発生した熱が、そこへと集中していく感覚。
じんわりと淡いむず痒さと、くすぐったいような息苦しさ。
最初はなんとか耐えられる程度だったその感覚は、手のひらの中で扱かれるうちに徐々に熱を増し、クラピカを追い込み始める。

「な、なにか……、苦しい……ッ」
「……なんだお前、精通まだなのか?」

クラピカの表情は、快楽というより、困惑と羞恥に彩られていた。

「気持ちいいことするだけだ。リラックスしてな」
「ひっ、あ……!!」

先ほどとは逆の耳が、イズナビの口内で嬲られる。
クラピカの中心に集まった熱は、その刺激に一層燃え上がり、クラピカを蝕んだ。

「…やはり、いじめじゃ、ないか……ッ」
「お前、挿れられても平気なクセに、偏ってんな……」

イズナビの空いた手は、クラピカの上半身をゆっくりと撫でている。しかしその優しい愛撫すら、今のクラピカには、苦しい。絶頂を求め始めた体が、肌に触れる刺激を余さず熱に変換して、クラピカの中枢へと送っているような感覚だ。
耳に、肌に、中心に、様々な刺激を加えられて、溺れたように息苦しい。次第にクラピカは、中心から背筋を昇った熱が、脳を溶かしているような感覚に襲われ始めた。背筋も脳も、ゆわゆわと、まるで歪んでしまうようだ。全身が、もどかしい。

「…嫌だっ、変に…なる、変に……ッ」
「大丈夫、恐くねぇよ。じっとしてな」
「…嫌だぁ……ッ」

握り締めていたシーツを手放し、クラピカの両手は必死で男の胸板を押した。
熱を振り払おうと、何度も何度も首を振る。
腰を逃がしたいのに、クラピカを穿つ楔がそれを許さない。
熱い。焼けてしまう。迫り来る熱から逃げなければいけないのに、逃げ場がない。

「やめ…っ、やめてッ、も、変…に、嫌ぁッ」
「泣かなくていいだろ…もうイけるから、な?」

クラピカの全身が痙攣するように張り詰め、イズナビのものをキツく締め付ける。
その感触を楽しみながら、イズナビは、スピードを上げてクラピカを追い詰めた。

「嫌……ッ、ああっ、あああぁ…ッ!!」

クラピカは体を仰け反らせ、生涯初めての精を飛び散らせた。





しゃくり上げるクラピカを宥めるように、イズナビの舌は、頬を伝う涙を繰り返し掬い上げた。

「こんな…、何故…」
「お前が、最後までやれって言うからだろ」
「……動けば、終わるじゃないか…こんなこと、何の意味が…」
「セックスってのは、二人で良くならなきゃ意味ねぇんだよ。気持ち良かったろ?」

……今のが、気持ち良いことだと?
クラピカは、強制的に味わわされた感覚を反芻した。忘我のあまり分からなかったが、言われてみれば、そうだっただろうか。

「そういやお前、年いくつだ? 思い出したなら分かるだろ」
「……聞いてどうするのだ?」
「あわよくば罪悪感の軽減」

意味を分かりかねながらも、クラピカは自分の年齢を計算する。空白期間が長すぎて、あえて計算しなければ分からなかった。
そうして計算結果を告げると、イズナビは複雑そうに眉根を寄せた。

「……ギリギリアウト、かな」

親子ほどの年齢差。明確に「子ども」と表現できる時期から手元に置くことで育まれた、親のような情。
手元で大切に育てて、充分に熟す前に自ら摘み取った、そんな危うい罪悪感。
そしてそんな複雑な感情を差し置いたとしても、ただただ単純に、大人の階段を上らせるには少々危なっかしい年齢。
『 犯罪 』 の二文字が、今更ながら脳裏にチラつく。

「ま、想像よりはマシだったな。お前、小っせぇから、もう少し幼いかと…」
「なんだ、年齢がそんなに重要なのか?」
「……お前も大人になれば分かるさ」
「未だに子ども扱いか」
「大人は優しくイかされただけで泣いたりしねーんだよ」
「………ッ」

イかされる、の意味は咄嗟には分からなかったのだが、それでも泣いたことを指摘されてクラピカの顔が熱くなる。
そんなクラピカを、イズナビは優しく、また唇と手のひらで愛撫した。




「あ……ッ、く、う……っ」
「…痛いか?」
「うぅ……ッ」

時間を掛けて緊張を解いたうえで、殊更にゆっくりと動かしても、クラピカの表情は苦悶に歪む。
仕方がないかもしれない、とイズナビは思う。なにしろ強引に貫いた。昔、乱暴された時と同様に、裂けていてもおかしくない。

「あッ、う……っ、ううぅ…」

快楽で誤魔化せないかと芯を擦ると、クラピカはむしろ苦しさを増した顔で首を振った。
それを見て、イズナビは手を止める。クラピカにとっては、痛みに集中して耐え抜く方が幾分かマシだろう。

「クラピカ、我慢できるな?」
「ん……っ」
「早めに済ませるから、な」

苦痛を与えることを覚悟で、速度を上げて突き上げる。
本当は、年齢も何もかも忘れて貪ってしまいたい。イズナビはなんとか、すんでのところでその欲望を抑え込む。
一方のクラピカは、苦痛に喘ぎながら、どこか安心していた。もちろん、辛くて苦しい。けれど、ワケの分からない感覚に翻弄されるよりは楽だった。
それに何より、揺さぶられる度に、自分の奥深くに目の前の男を感じる。体内に刻まれた忌まわしい印が浄化されていくようで、その感覚がただ、愛しい。

「ん、……あ…っ」

やがて、中へと、出される感覚。自分とは別の体温が、体内に広がる感覚。
忘れてしまいたいと思ったあの日とは真逆に、クラピカはその感覚を、ずっと覚えていたいと思った。
目の前の男に対する、明文化できない複雑な情とともに。

「終わった、のか?」

動きを止めたまま、クラピカをじっと見下ろしてばかりのイズナビに、クラピカは確認のためにそう訊いた。

「ムード無いな、お前…」

イズナビは少し笑って、また優しく口付けた。








――――――――――――――――









朝。
同じ布団で目を覚ますのは、実に久し振りのことだった。

「クラピカ、おはよう」
「…おはよう」

二人の間に流れる空気は、昨日の朝とは明らかに異なった。
それは、クラピカが記憶を取り戻したからなのか。
それとも、親子ならば決して超えてはいけない一線を、超えてしまったからなのか。


  *  *  *


クラピカは淡々と、出立の準備を整えていた。
準備と言っても、大した私物は無く、せいぜい衣服と本を整理する程度だが。

「何処へ行く?」
「……故郷へ。その後は、それから考える」

イズナビは、鞄を整理するクラピカの横顔を見下ろす。
その瞳はどこか寂しく、冷たい。
イズナビは、クラピカのそんな瞳を見るのは、初めてだった。

「記憶が馴染むほどに、怒りの感情が強まる。何故忘れてしまっていたのか、不思議なほどに」
「……オレを、恨まないのか」
「何故だ?」
「ずっと黙っていた」
「恨むはずもない。そもそも耐えきれずに自ら記憶を手放したのは私自身だ。受け入れられる器をお前が育ててくれたから、今の私がある」

それに、と付け加える。

「分かっていたのだろう。記憶を取り戻せば、私はこうして生きるしかなくなるのだと」

孤独な修羅の道。復讐者として生きる道。
絶望の暗闇では見えなかったその道は、今は当然の如くクラピカの進むべき唯一の道となっていた。
普通の子どもなら、例え志してもあえなく挫折するのだろうが、クラピカを止めるものは 『 死 』 しかない。
クラピカは悲しくも、強すぎた。

「お前には四年近くも、本当に世話になった」
「礼はいい。オレは名付け親で……」

ふと、その響きの虚しさを思い出す。

「……違ったな。名付けたのは、オレじゃない」

本当は名付け親なんかじゃない。
分かっていながら、それでも親子のように暮らして。
けれどその関係すら、あり得ない一線を超えることで崩壊した。

クラピカは、イズナビの自嘲的な微笑を、静かに見上げた。

「…思うに、私は元の『クラピカ』とは既に別人なのだと思う」

思い出した記憶は、強い負の感情こそ完全にクラピカのものとなったが、記憶自体はどこか他人事のようだった。
なにしろ、記憶を失い元の人格を消失したまま、四年近くも過ごしたのだ。
まっさらな心は、日々の新しい体験をもとに、新しい色に染まった。
元来の趣味嗜好は変わらないままだが、確実に、クラピカの人格は元のそれとは別物になった。
そこに記憶だけ放り込まれても、元の人格が取り戻せるわけがない。

例えば今のクラピカは、偽証を極端に嫌悪する。それはこの閉鎖的な環境に暮らし、乏しい実体験よりも、理想を語る書物に強く影響された結果だ。クルタ族の同胞と共に暮らしていた頃のクラピカには、もう少し柔軟な面もあった。例えばクラピカが森の外へ飛び出すための試験の合格には、クラピカが外で赤目に変わったことに関する偽証が存在するが、当時のクラピカはそれをさほど恥じてはいなかった。

「記憶の中にある自分が、自分だとは思えない。単に成長につれ変化したわけではない、全くの別人格だ。…確かにあの日、私は潰えたのだと思う」

屈託無く笑う、無邪気なクラピカはもういない。
表情豊かな、あの少年は死んだのだ。少年の願ったとおり、消えたのだ。

「今の私にクラピカと名付けたのは、紛れもなく、お前だ。お前は私の名付け親なのだよ。今までも、これからも」

イズナビに向けられたのは、落ち着いた、静かな微笑。それが今のクラピカの精一杯。

無表情、抑揚に乏しい声、そして母語ではないが故に固い言葉遣い。
それが、記憶を失ったクラピカのスタート地点。
だからだろう、表情も感情もあまり豊かとは言えない、年の割に落ち着いた少年に成長した。
そしてそれは皮肉にも、復讐者として生きんとするクラピカによくマッチした。

「……でも、出て行くんだろ。オレは “クラピカ” を、もっとオレを頼るように教え育てたつもりなんだが」

クラピカの視線が、少しだけ揺れ動く。
クラピカ自身、この男との縁を断ち切る未来など昨日までは想像もしていなかった。例え記憶を取り戻しても、ここはクラピカの第二の故郷であると、そう昨日までは思っていたのだ。…けれど。

「これは私自身に課せられた使命だ。迷惑はかけられない」
「名付け親でも?」
「ああ」

この男を失いたくなくて、一人になりたくなくて、強くなったのに。
与えられた強さは自分自身の使命のために使うつもりで。
そして目的のために穢れるであろう心と身体で、この男の元に帰るつもりも、もう、ない。
自ら望んで一人になるのだ。

「一人で為さねばならない使命だ」

誰も理解できるわけがない。誰にも理解されなくていい。
そう言わんばかりに、クラピカの静かな瞳は、彼方を見つめた。

「受けるつもりだろ、ハンター試験。ありゃ運の要素も強いが、今のお前なら合格できるだろう。この三年、ヤワな鍛え方はしてねぇからな」

クラピカの頭に、いつかのようにポンと手を置きたくなるのを、イズナビは堪えた。

「何かあれば、遠慮なくオレのところへ来い」

“帰って来い”、とは言えない。
クラピカはもう、帰る場所を持たないつもりだから。

「先輩ハンターとして、お前の師匠として、アドバイスくらいはしてやるよ」
「……これからもお前はずっと、この山に?」
「ああ。仕方ないだろ」

……無事に大人になるまで育てることが、贖罪。
そんなイズナビの台詞を覚えていたのだろう。まだ大人とはいえないクラピカは、視線を下げ、目を伏せた。


  *  *  *


なんだかんだで、クラピカは最低でも二度はここへ来るだろうとイズナビは予想する。
まずは、ハンター試験応募カードの保護者チェック欄。適当な大人を捕まえても良いのだが、あの子は馬鹿正直に、イズナビに頼みに来るだろう。
それから、裏ハンター試験。その頃には、外の世界で公用語の口語を多く耳にし、もう少し小慣れた喋り方になっているかもしれない。この山では、話し相手がイズナビしかいなかったからだろう、不自然な 『 なのだよ 』 すら矯正されなかったが。

イズナビは、遠ざかっていく子どもの背を思い返す。

最初はただ、贖罪だった。
だが三年以上も共に暮らして、そんな感情ばかりであるはずがない。

A級賞金首。
幾人ものハンターが、彼ら相手に命を落とした。
あの子もまたハンターとなり、念を習得して、そして大人にすらなれずに、命を落とすのだろうか。

話し相手を失った孤独な山暮らしの日々では、考えたくもない未来が、幾度も幾度も、浮かんでは消える。

例えばあの子がいつか、オレを頼ってくれる日が来たら。
オレは喜んで、山を下りるのだろう。

おまけ1 : 事後に舌で可愛がられるクラピカ

おまけ2 : 別パターンのエンド(やや悲しい系

Novel
'17.10.11