Take a Shelter

自分の瞳に 何が映っているのかすら 瞬時には理解できなかった。
ふらり と膝の力が抜けた。
赤く濡れて あまりにも冷たく 倒れ伏す同胞たち。
クルタ族の────
 
己の瞳が....
視界を覆うセロファンが、すぅっと変化していった。
 
 
あの時、たった一粒 零れた『雨』は、
未だに私を逃がさない。
 
 
 
 
 
 
雨が降り出した。もともと、朝から雲行きは怪しかった。
暦上 4月を迎えたコトになってはいるが、
『春の陽気』なんてモノは微塵も感じられず、午後でも少し肌寒いぐらいの気温。
日光の温もりを閉じ込めておける小さな部屋は、かえって外よりも居心地がいい。
こんな日に外を行く人々は大変だろうな。雨に濡れた部分を風に晒せば、余計に肌を冷やしてしまう。
でも、春の天気は、変わりやすいから。…そのうち、きっと降り止む。
「クラピカ、どうした?外なんか眺めて」
ふと 問い掛けられる。そのレオリオの声と共に、コーヒーの香りが ふわりと届いた。
「…ん。何でもないけど…雨、降ってきたな って。」
振り返らずに答えると、ふーん、と 気のない返事がソファーから聞こえた。
何気なく見やれば、彼はコーヒーを飲みつつ、机に置いた何冊かの雑誌に目を通していて───同じその机の上に、コーヒー入りの私のカップが湯気を立てていた。
なんて彼らしい…… つい、笑ってしまう。
私は、ありがたく頂くコトにした。外気の冷たさの混じる窓の傍を離れ、一歩を踏み出して。
…思わず立ち止まった。
「……あ」
華やかに舞う小さな色彩が、目の前を過ぎったのだった。
「ん?…アゲハチョウか。」
同時に気付いたらしい彼が呟く。
私達の視線の先で。ひらひらと頼りなく揺蕩っていた蝶は、やがて一つ所に羽を休めた。
雨の激しく叩きつける窓の傍ら、鉢植えの枝に止まり、美しい羽は 時折開いてはまた閉じる。
「迷い込んできたのか?コイツ」
外へ逃がそうか、と彼は言う。
 
外は雨。冷たい雨。
しとどに濡れる、木々に花。
 
私は(かぶり)を振った。
()いんだ、逃がさなくても。シェルターを、探して来たんだから。」
「シェルター?」
蝶は、再び宙を舞おうとする。頼りない飛び様は、よく見ると少し不自然だ。
「雨が激しいから…雨避けの場所を、探しに来たんだよ。」
そうか。羽を、少し濡らしてしまったのか。
「“シェルター”ねぇ……安心するんかな。」
鉢植えの太い枝が気に入ったらしく、蝶はまたそこへ止まった。
雨が止むまでは ココに置いてやるか───そう言って彼はソファーに腰掛け、軽く読書を始めた。
私は ぼんやり突っ立っていた。
小さな羽を、凝視(みつ)めて。
 
アゲハチョウ。濡れた羽。
雨の日は 何となく憂鬱な気分になる。
右手の甲の、黒いシミが疼く。
濡れてしまったその一点は、いつまでたっても。
 
「…クラピカ?」
つ、と 肩に大きな手の温もりが添えられた。
「どうしたんだ?…コーヒー、淹れたからさ。(あった)かいウチに飲めよ」
雨の日は、憂鬱な気分になるから。…無視するつもりはなかったのだけど。
滑らかな蝶の動きから、視線()が逸らせない。
 
雨に濡れてしまった…羽が。
ぐずぐずと滲んで、そのまま腐食して 無くなってしまいそうだ。
 
黙したままでいると、肩の温もりはズレていって───気が付けば、彼の両腕の動きにくるくると巻き込まれていた。
背中の布越しに伝わる、彼の感触。ほぅっと力を抜いた。
「カラダ、冷たいな。…寒いのか?」
あるいは そうかもしれない。
くるん、と体が反転して、顔が彼の胸板に押し付けられた。
黙って、そのまま体重を預ける。
「ホント、どうしたんだ?なんか、お前───」
少し考えるように唸ってから。彼は、『素直だな』と付け加えた。
 
目の端に、ふと蝶の鮮やかな羽色が映った。
滑らかな羽のしっとりと濡れた部分は 鈍く光って、背筋を寒気が走った。
 
「…別に。…雨、降ってるから……」
───降ってるから?寒い?
そう声が聞こえて、戒める腕が緩む。
やんわりと背を撫でられ、同時に顎を持ち上げられて。
 
間近で視線が絡んだ次には、吐息が混じり合った。
 
 
 
 
 
右手の甲がジンジンと痛い。
黒いシミ。
ココから、腐ってしまう?溶けて、なくなってしまう?
 
 
 
 
 
 
 
自分の瞳に 何が映っているのかすら 瞬時には理解できなかった。
ふらり と膝の力が抜けた。
赤く濡れて あまりにも冷たく 倒れ伏す同胞たち。
クルタ族の────
 
瞳       が      染まれば
           赤い           セロファンに
 
    透かしたような      ───真紅の世界。
 
ズブ濡れて倒れる同胞。腐った果実みたいに、ドロドロに腐敗していく。
『何』に濡れて?
…震える自分の人差し指が、おそるおそる、ある一人の顔のあたりを拭う。
ぬるりと生温かい、赤色の液体。
コレは『何』?赤い液。
赤い液 …赤い水?
 
そうか、コレは『雨』。
 
この 真紅の世界 で、
 
雫が『赤く見える』のは当然のコト。
 
雨だ、雨。雨でズブ濡れの同胞たち。雨に濡れて、もう動かない…動けない同胞の骸。
 
 
────ポトリ、と。
握り締めた右拳に 一粒の雫が落ちて。目頭が、熱くなっているのに気付いた。
ポトリ ポトリ、視界は 滲んで 曇って ぼやけていく。
両の瞳から頬へと伝う、二筋の液体。
『何』? 雫……。
───雨?これも、雨!
 
飛び跳ねるように立ち上がった。
ただただ 全速力で走った。
雫の落ちた右手の甲が、風を受けてヒリヒリと痛む。
逃げなきゃ。濡れるワケにはいかないのだ。
自分まで、あんな風に、倒れるワケには────
 
 
シェルターを
 
…シェルターを、探さなきゃ。
 
 
 
 
 
柔らかいソファーにそっと抑えられて。
彼が、私を護るように覆い被さった。
 
「昼間から、何」
「別にイイだろ」
「明るいから嫌だ」
「誰も見てない」
 
「…蝶が見てる。」
 
(ひたい)を、音を立てて啄ばまれる。
腕の中に捕らわれて。
 
「こーやって、オレが隠すから平気。」
 
シャツの中に手のひらが滑り込んできて、思わず身を引いた。
「コーヒーが…冷める……」
「───後で淹れ直す。つーか、往生際 悪ィぞ、お前」
狭いソファーの上、逃げ場なんかあるハズもないのに。
 
 
頬に 首に 裸の胸に
触れる唇 上がる息。
 
逃げ込んできたアゲハチョウ。
可哀想に。もう、自由にはなれないだろう。
もう、自由に飛ぶコトは出来ないだろう。
羽は乾かない。黒く、シミになる。
溶けて腐食されていく その恐怖に いつまでも縛られたまま。
 
あの時、たった一粒 零れた『雨』は、
未だに私を逃がさない。
 
…シェルター。
「ん?クラピカ…何か言ったか?」
私は うっとりと目を閉じて、その肩口に縋りついた。
シェルター…今は大丈夫。
両の目から溢れる雫さえ、全て彼が舐め取ってくれる。
なんの不安も無い空間。
 
肩越しに揺れる天井を背景(バック)に、
羽のただ一点を濡らした蝶の影が 幾度も幾度も 過ぎっては消えた。
 
 
「お前…ホントに綺麗だな。不思議なくらい。シミ一つ無い……」
彼はそう言って。私の右手の甲に───あの黒いシミのあたりに───唇で触れた。
 
 
いつまでたっても乾かない羽。
濡れたままのカラダ。
 
視界を覆うセロファンが、すぅっと変化していった。
真っ赤な世界に 降る雨は───